僕が高校時代を過ごしたのは1980年代前半、
校内暴力の嵐が吹き荒れていた時代です。
「積木くずし」「スクール☆ウォーズ」「不良少女とよばれて」などのテレビドラマがヒットし、尾崎豊が「盗んだバイクで走り出す〜♪」と歌っていた頃。
僕が通っていた高校はやたらと校則が厳しい学校でした。
制服、制帽、頭髪には厳しい決まりがあり、酒、タバコはもちろん、下校時に飲食店に行ったり、買い食いすることも禁止。違反すると校庭のランニング、廊下で正座、丸坊主。教師に殴られることも日常茶飯事でした。
世の中で認められていても学校の中では禁止。
学校が牢獄のように感じられ、僕は外の世界を知りたいと必死にもがいていました。
勉強しろ
いい大学を目指せ
大企業に就職しろ
学校や親にそんなことを言われれば言われるほど反発しました。
僕は「自由」になりたい
将来の仕事を考えるようになり、憧れたのは映画監督でした。
当時の映画界はまだまだ自由で破天荒な世界。
僕はとりあえず映像が学べる東京の大学に進学しました。
東京に出て一人暮らしを始めた僕は、初めて「自由」を手に入れました。
自分のやりたいことはなんでもできる。
誰からも文句を言われない。
仲間と自主制作で映像をつくったり、
アルバイトをしたり、
酒を浴びるように飲んだり、
女の子とデートしたり、
お金はないけど楽しい学生時代を送りました。
そして、東京でテレビ番組の制作会社に就職しました。
当時はテレビが元気だった時代。
新しく刺激的な番組が次々に生まれていました。
はやく自分らしい番組が作りたいとがむしゃらに働き、
3年目にはレギュラーの旅番組でディレクターを任されるようになりました。
しかし、そこで大きな壁にぶち当たったのです。
忘れもしない、初めてディレクターをする番組は小笠原父島がロケ地でした。
東京からフェリーで24時間、その船も3日に一便しか出ない太平洋の孤島です。
ホエールウォッチングや伝統芸能、人々の暮らしを取材しました。
取材させてもらった中に一人のおばあさんがいました。
「取材されるのは恥ずかしいんだけど、東京にいる子供たちに元気な姿を見てもらえるなら」
そう言って取材に応じてくれました。
撮影を終え、東京に戻りすぐに編集。
そして放送局のプロデューサーチェックに臨みました。
プロデューサーのリアクションは概ね好評。
でも、
「このおばあさんはカットしよう」
という一言を除いては。
今となってはプロデューサーがなぜカットしようと言ったのか覚えていません。
きっと僕の取材が下手だったんだと思います。
僕はなんとかおばあさんのシーンを残したいと食い下がりました。
でも、ダメでした。
僕は泣く泣くおばあさんのシーンをカットしました。
そして、おばあさんに電話をして必死に謝りました。
おばあさんは
「もう子供たちに伝えてしまったのに。子供たちになんて言えばいいの!」
と怒りました。
この体験は30年経った今も、僕の心の中に大きな傷跡として残っています。
ディレクターになれば「自由」に番組を作れると思っていました。
しかし、それは大きな間違いでした。
「この方が面白いから」
「視聴率が取れないから」
「スポンサーからクレームがくるかもしれないから」
その後も放送局のプロデューサーとは様々な場面でぶつかりました。
テレビ番組は商品です。
僕は「面白く」て、「視聴率」がとれて、「スポンサー」にも喜んでもらえる、
そんな番組の作り方を模索し、自分なりのやり方を身につけていきました。
ディレクターとしてある程度経験を積んでくると、自分で企画書きたいと思いました。フジテレビの深夜で放送されていたNONFIXは、そんな僕にとって憧れの番組でした。
「視聴率は求めない」「スポンサーはなし」「放送局のプロデューサーに直接企画を持ち込み、プロデューサーはその場で合否を決める」「放送局のプロデューサーは最大限ディレクターの意向を尊重する」「でも製作費は少ない」
それがNONFIX。
テレビの実験場、開放区と言われた番組でした。
当時、NONFIXで活躍していたのは、後にオウム真理教に密着したドキュメンタリー映画『A』などを撮る森達也監督や『万引き家族』でカンヌを受賞する是枝裕和監督など。犯罪、エロス、差別、テレビでは普段見かけることのないテーマを取り上げ、ディレクターたちが格闘してたのです。
NONFIXの企画を出したいと言った僕に、会社の上司はこう言いました。
「無理、お前の企画なんて通らないから」
「会社の品位を傷つけるようなことはするな」
僕は会社を辞めることにしました。
フリーランスのディレクターとなっても、仕事は次々ときました。
でも、しょせん便利屋。
求められるのはテレビ局のプロデューサーからの要望通り番組を作ること。
「実力と知名度のないディレクターに自由なんてない」
ということを思い知りました。
「このままじゃダメだ」
そう思った僕は大学の先輩のツテを頼り、当時是枝さんが所属していたテレビマンユニオンという制作会社に潜り込みました。最初は番組契約のADでした。
働くようになって分かったのは、テレビマンユニオンが驚くほどディレクター至上主義の会社だということ。社内では「編集権はディレクターにあり」というのが当たり前。放送局のプロデューサーに編集を直せと言われても、ほとんどのディレクターは簡単には受け入れません。議論の末、喧嘩になることも良くありました。
ディレクターという表現者の「自由」を守るためには、
実力を身につけた上で、戦わなければならない。
日々、先輩たちから言われ続けました。
そんなテレビマンユニオンは僕にとって理想的な会社でした。
「企画を書きたいんですけど」
「書け書け、山ほど書け」
「企画書、書いたんですけど」
「放送局のプロデューサー紹介するから自分で持って行け」
最初に書いた企画は憧れのNONFIX。
タイトルは『健全な青少年のつくりかた』。
R-18(18歳未満禁止)の映画やビデオなど、そのルールを「誰が」「どんな基準で」つくっているのかを探るドキュメンタリーでした。必死で書いた企画は見事に決まり、僕はADからディレクターに戻りました。
それ以来、僕は企画書を書いて単発番組を作るというスタイルで仕事をするようになりまいた。それが一番「自由」で、自分らしく仕事ができると思ったからです。
契約社員からメンバー(テレビマンユニオンの「社員」は会社の株を買いメンバーと呼ばれる)にもなれました。
念願だったドラマの企画も通り、ドラマの監督もできるようになりました。
素晴らしい職場で、大好きな番組作りに熱中しました。
仕事をして、飲みに行き、映画や演劇を観て、たまに旅行をする。
そんな日々を送っている時、ふと思いました。
「退屈だなぁ」
安住の地を手に入れて、
僕はいつしかその枠に、自分を押し込めていたのです。
知らない世界に飛び出したいともがいていた高校時代、
学校や親が枠を決めようとしたように、
僕も自分を安全地帯の枠に閉じ込めていました。
もっと「自由」に、
自分の力と責任で、未知の世界に挑戦したい。
そんなことを考えて再びもがきはじめた時、
僕は上勝町に出会いました。
つづく